憲法82条1項は「裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行う」と規定している。
ここにいう「裁判」の意味(具体的には非訟事件の位置付け)、「対審」の範囲、については争いもあり、独立して検討する価値がある問題であるが、ここでは、(現行法のもとでの)弁論兼和解と(新法下での)弁論準備手続等を念頭に、「何故に裁判は公開されなければならないのか」の実質的な問題について若干検討してみたい(なお、本稿は、ニフティー・サーブのFLAWA7番会議室での私の発言を元に、再構成したものです。)。
1 概していえば、弁護士は公開を求め、裁判官・学者は公開の意義を認めない傾向があるのかも知れない。
2 そこで、弁護士がなぜ公開を求める傾向があるのかを考えるに、次の弁護士の見解がこれを最もよく表していると思われる(松森彬「民事裁判の新方式の問題点」自由と正義46巻8号)。
「公開の意味は、裁判官の立場では分かりにくいようであるが、法廷のように、次の裁判の関係者がいるとか、あるいは入ってきてもよいという場と、当初から誰も入ってくることのない、書記官もいない密室の場とでは、雰囲気が違う。実際に、弁論兼和解のときは自身の姿勢がルーズになると言われる裁判官もある。私は、東京地裁の弁論兼和解で「陳述書について裁判所に協力しないのなら、証人の採否について裁判所も協力しない」という発言を受けたことがある。・・・裁判の公開の問題は観念論に過ぎないと言われる学者、裁判官があるが、裁判の公開は、これまで指摘されてきたように、裁判の公正さを担保し、質を確保し、裁判官の圧倒的優位の下で生ずる歪みを是正しているのではないか。民事裁判は証人調べ以外は密室でよいとするのか、裁判の公開の持つ意味について、実証的に検証することが必要であると考えられる。」
陳述書は「証人尋問に代わるもの」ではないというのが裁判所の一般的な姿勢であるが、中には証人尋問に代わるものとして陳述書を位置付けたい裁判官もいるらしい(実際のところ、証人尋問調書よりは陳述書の方が読みやすいし、裁判所にとってみれば時間もとられない。また、分かりやすくポイントを突いた証人尋問というのは実に難しいもので、証人尋問がうまい弁護士はむしろ少ないものである。更に、反対尋問で証人を弾劾するというのは、滅多に成功しないものである。証人尋問に代えて陳述書で済ませたい、という裁判官の心理的傾向は理解できないところではないと思われる。)。
しかし、そのような心理的傾向の当否は別として、松森弁護士が指摘した裁判官の発言は、全くもって弁解の余地はないであろう。そして、弁護士の多くは、このような裁判官の不見識な発言が出てくるのは弁論兼和解が非公開の密室の中で行われることに由来すると考えている、と見て間違いないのではなかろうか。
また、中本源太郎・北尾哲郎・竹田真一郎「民事訴訟審理のあり方」自由と正義43巻12号では、
中本「裁判が非公開化密室化すれば、結局は裁判官を信用するしかないのであって、制度として適正公正を担保するものが失われる。」、
竹田「制度としての公正さを維持するためには、傍聴しようと思えば何時でも誰でも傍聴できる形式が重要である。少なくとも、この形式的公開性は、維持する必要がある。」
という指摘がされている。具体的事実の指摘がないので説得力に欠けるきらいがあるが、松森同様、この両者の発言の背景にも各人の体験があったものと思われる(ちなみに、北尾は「議論の場での距離の問題や、公開の場所での率直な議論が難しい日本人のメンタリティーから、非公開の方が争点整理に馴じむ」としており、弁護士会内部にも異論があることがうかがわれる。)。
3 これに対して、北尾発言のように、積極的に非公開の方が争点整理をしやすい、という立論もある。裁判官や学者などにこのような立論が多いようである。
しかし、私は非公開が積極的に望ましい、と考えることはできない。人に見られて困ることをしているわけではないからである(西野喜一「争点整理と弁論兼和解の将来」判時1583号19頁が、この問題を詳細に検討しているので、興味をお持ちの方は直接参照していただきたい。)。
改正民訴法169条2項は、「裁判所は、相当と認める者の傍聴を許すことができる。ただし、当事者が申し出た者については、手続を行うのに支障を生ずるおそれがあると認める場合を除き、その傍聴を許さなければならない。」として、弁論準備手続は原則非公開としつつ、相当広範に傍聴を認めている。この規定をめぐっては、原則非公開を主張する裁判所サイドと原則公開を求める弁護士会サイドとで相当程度の議論がなされたものと想像されるが、実務の運用としては傍聴を希望する者には傍聴させるという現在の弁論兼和解と大きな違いは生じないものと思う。
結局、問題は「公開すべきか非公開とすべきか」ではなく、「積極的に公開することにどのような意味があるか」(裁判を公開することによって不見識な裁判官の言動を抑制することを期待することの当否)ということになろう。
4 高橋宏志「争点整理手続立法序説」民訴雑誌40巻93頁は、次のように指摘する。
(争点整理手続を非公開を原則として、傍聴希望者があるときはそれを許す、という)「立法をするのが適切かとなると、それは傍聴という手段による裁判の公正担保がどの程度こんにちのわが国で必要かという問題に還元される。しかし、ここには客観的な議論の材料が提供されていない。承服しがたい訴訟指揮をする裁判官がいるという指摘があるにとどまる。客観的な資料で議論するのでないとすると、哲学ないし姿勢の問題となるが、私は傍聴許可を立法しておく方がよいと考える。瓜田に沓を入れず式の精神論にとどまるであろうが、見られて困る訴訟指揮はしないことを宣明する意味で、立法として優っているように思うからである。また、傍聴は、裁判官に対する牽制だけではなく、もう一方の専門家である弁護士の業務へのチェックとしてもなにがしかの効果があるのではなかろうか。それは、裁判所ウォッチング運動、弁護士活動の市民モニター制度とも連携することができるであろう。」
「たとえば、裁判官による強引な争点「切り捨て」に訴訟代理人たる弁護士が対抗するには、仲間の弁護士が傍聴していた方が心強いと言われる。また、要領を得ない発言に裁判官が苛立つということであろうが、本人訴訟において裁判官は居丈高であるという噂もよく耳にするところであり、傍聴はこれへの牽制の意味を持ち得よう。また、準備不足が仲間から批判されるのを恐れて訴訟代理人の準備の質が確保されるということもあろう(小山稔報告・本誌37号64頁)。しかし、この種のことのみであると、いささか迫力に不足する感がないではない。公開ないし傍聴を、本小稿が哲学・姿勢の問題として論ずる所以である。」
「ちなみに弁論兼和解に対する反対論として、強引な和解や押しつけの温床になるというものがある。しかし、強引な和解押しつけに対して、公開ないし傍聴は対抗策にならないであろう。和解手続を公開せよという声は聞いたことがなく、また、適当だともされていないからである。」
5 これに対して、前掲西野論文は、次のように指摘する。
「手続の公開によって、裁判官の訴訟指揮が恣意的ないし強権的なものに陥る恐れが減少する」
「裁判官の訴訟運営に対する手続法の規制が緩やかとなり、裁判官の裁量の範囲が大きくなればなる程、この視点は重要となるであろう。」
「裁判官サイドではこの点からの公開の意味をさほど重視していないものが多いように見受けられるが、ここでいう「争点整理手続」名下で実際に行われていることの重要性(後述)に照らせば、そこでの結果は後に口頭弁論に上程されるのであるからそれでよい、などと言って済ませることはできないし、また、当事者たる弁護士の手になるものでは右のような恐れを指摘するものが多いのであって、これは決して無視できることではない。裁判官が知り得る他の裁判官の訴訟の運用ぶりは極めて限られたものであるのに対して、弁護士はその職務上、膨大な数の裁判官の運用ぶりを体験し、これを批判できる立場にあるからである。」
「手続の内容を傍聴人が理解できなければ公正さの監視・確保はできないのではないか、という反論があり得るが、見る人が見ればわかり、訴訟手続を知る者が傍聴すれば事態が理解できるということ、そして、このような訴訟運営はいかがなものか、という疑義が生じた場合には、それ以後でも市民が傍聴してチェックできる、ということで公開の意味は十分である。」
(前掲高橋論文)「は哲学・姿勢の問題、とするが、それはそうであるとしても(そうであれば尚更?)、より公正さを確保しやすい手続にしておくことは意味のあることであろう。」
1 裁判官の中には、不相当な訴訟指揮を行って省みない者、不穏当な言動をする者がいる、という弁護士サイドの指摘は、残念なことではあるが、一定の真実を含んでいると考えざるを得ない(その多くは誤解ないしは立場・見解の相違に起因するものと思いたいが、すべての場合がそうだとは到底言えないであろう。)。
とするなら、それを牽制する一つの手段として、裁判の公開を積極的に位置付けることは理由がある、というべきであろう。
2 問題は、裁判の公開が不見識な裁判官に対する抑制として充分機能するかどうか、という点である。
この点は、前掲松森論文の「裁判の公開の持つ意味について、実証的に検証することが必要であると考えられる。」との指摘が当てはまることであろう。今後の実証的な研究を期待したいところである。「公開の法廷」で傍聴人を前にすれば不穏当な言動等は控えるだろう、というのは一つの想像に過ぎず、果たして現実にそうであるのか、という点は依然不明である(私の想像では、不見識な裁判官は傍聴人がどう思うかなどとは余り気にしないのではないか。)。
ただ、その場合議論の念頭に置かなければならないのは、一般の民事事件で傍聴人がいる、などという事態は通常考えられない、という点である。弁論では1期日に数十件の事件を期日指定する関係から、次の事件の弁論を待つ弁護士等が事実上傍聴人のような機能を果たすことは考えられる。しかし、それは事実上そうだというだけであって、制度的に弁護士に傍聴人としての機能を期待したものではないし、そのような保証も与えられていない(むしろ、1期日に数十件の事件の期日指定が行われているという現状が異常なのである。)。
法廷ウォッチングなどという動きもあるが、私は、事件の内容も争点も知らずに単に法廷でのやりとりを聞くだけ、ということで、民事事件について一般人が何らかの有効な感想を持つことができる、ということは幻想に過ぎないと思っている(話し方が丁寧かどうかとか、分かりやすいかとかいう点だけが採点されるのだろうが、私にいわせればナンセンスである。)。
3 そう考えていくと否定的な方向に行きそうであるが、私は、前掲高橋論文の「見られて困る訴訟指揮はしないことを宣明する意味」、前掲西野論文の「見る人が見ればわかり、訴訟手続を知る者が傍聴すれば事態が理解できるということ、そして、このような訴訟運営はいかがなものか、という疑義が生じた場合には、それ以後でも市民が傍聴してチェックできる」というものとして、消極的ながら裁判の公開には一定の意義があるのではないか、と思いたい。
4 なお、最後に、不見識な裁判官の言動等を抑制するものとして裁判の公開が積極的な意義を持っていないのではないとしたなら、他に不見識な裁判官の言動等を抑制する方法を探らなければならないであろう。それはそれで実証的な研究が待たれるところであるが、さしあたり、私の現段階での考えを書いておきたい。
(一)忌避申立
考えられないことではないが、訴訟指揮ないし法廷での態度を理由とした忌避申立は判例上理由がないとされているし、私もそう思う(例えば一方に肩入れしていると誤解を受けるような訴訟指揮をしていたとしても、その当否は専ら上訴審で判断されるべきことである。)ので、この目的には沿わないものである。
(二)弁護士による指摘
松森論文のように具体的な事実を指摘して不心得な裁判官を批判していく論文は、おそらく一番力があると思う。裁判官は当然のこととして判例雑誌等を読んでいるので、これらに自分の訴訟指揮・言動に対する批判があれば、相当こたえるはずである。この目的としては、インターネットの活用も検討されるべきだろう。
(三)裁判所への抗議
弁護士個人又は弁護士会として、当該裁判所(所長)に抗議することは十分可能であり、それなりの効力はあるかもしれない。司法権の独立の関係上、具体的な訴訟指揮の問題については抗議してみても仕方がない話であるが、法廷での態度等の外面的な問題であれば裁判所(所長)としても対応可能なはずである。